スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

文章、話し言葉

※本日より、松井計公式ブログは、「上北沢レコンキスタ」から、「懺悔は乾杯の後で」にタイトルを変更いたしました。今後とも、ご愛読、よろしくお願いいたします。

 先だって、私が書いた文章を、何気なく娘に見せたら、
「パパ、マルがないじゃん」
 と言われた。何のことだろうと思って、プリントした文章を見てみると、カギカッコで囲んだ会話文のことだった。以下のような文章である。


「そんな話は聞いたこともないな」

 出版界では、文章をカギカッコで囲む場合、文章の最後に句点を打たない。ところが、学校の国語で習う文章の書き方だと、カギカッコで閉じる場合も、文章の最後には必ず、句点を打つように教える。上記の文章なら、

「そんな話は聞いたこともないな。」 

 となるわけである。娘は、それを指摘したわけだ。

 ほかにも、出版界での慣例と、国語で教えられる文章の表記の仕方が違っているものがいくつかある。たとえば、出版界で採用されている、改行した次の行に、カギカッコで始まる文章がくる場合は、ひとマス空けない、とか、「?」や、「!」などのオノマトぺを使ったあとは、ひとマス空けるというルールだ。例を上げると、次のようになる。

 酒屋の角を曲がると、兵輔とばったりでくわした。
「お前、どうしたんだ? こんなところで」
 私は言った。 


 ところが、学校の国語で習う表記法だと、改行の後にカギカッコがきても、頭をひとマス空けるように教えるし、オノマトペのあと、ひとマス空けるような表記もしない。上の文章を学校での国語式に改めると、

 酒屋の角を曲がると、兵輔とばったりでくわした。
 「お前、どうしたんだ?こんなところで。」
 私は言った。


 と表記する。私はもう、出版界で17年ほど仕事をしているから、本にしたり、雑誌に発表したりするために書く文章以外でも、出版界での慣例どおりの表記をするようになっている。

 が、これからは、本になる原稿を見せる場合を除いて、子どもたちに何か文章を書いてやるときには、少し気をつけなければならないと思った。学校で習う基本の表記を、まず、子供たちがきちんと覚える必要があるからだ。

 そう考えていて、ふと、
「さて、あれはどうなっていただろう?」
 と気づいた。私は、以前、小学校中学年から中学生向けの書物を刊行したことがある。ちょうど今の娘の世代向けの本だ。さっそく、本棚からその本、「生きるってなんだろう⑥ ホームレスだったぼくから、きみたちへ――共に生きる社会を考えよう」(実業之日本社)を取り出してみた。

3.jpg

 この本は私が少年読者に語りかける文体で書いてあるので、なかなかカギカッコで囲んだ会話文が出てこなかったのだが、しばらくぱらぱらページを捲っているうちに、やっと会話文にぶつかった。やはり、出版界の慣例どおり、改行の後はひとマス空けず、文章の最後にも句点を打っていない。

 ただし、これは決して悪いことではない。子供たちは、学校で教わる文章表記法を理解した上で、そうではない表記をされている本を読むことにより、一歩ずつ、大人の世界に近づいていくのだろうから。学校で教わることが、社会の真実のすべてではないと知るところから、子供は大人への階段を上り始めるのである。

 文章表記といえば、マンガでフキダシの中に記される会話文の表記法も、ひどく特殊なものである。ま、これについては論じると長くなるから、またの機会に譲ることにする。

 さて、上記は文章の表記法の問題だが、最近、私は<話し言葉>について、ひとつの疑問がある。このごろの若者の言葉が乱れている、という話をよく聞く。まあ、若い頃と言うのは、どの世代であっても、仲間内だけで通用する特別な言い回しを好むもので、それをそのまま<日本語の乱れ>などと騒ぐのは、成熟した大人の態度ではない。

 ま、それは措くとして。私の疑問というのは、いったい、何歳くらいからそういう言葉を使うようになるのだろう? ということである。私の娘は小学5年生、倅は1年生である。彼らの喋り方に接してみて違和感を覚えることは少ない。もちろん、我が子の言葉遣いが正しいとかきれいだとか言いたいわけではない。

 くだけて話す時には、彼らも充分に言葉遣いが悪い。しかし、それは、私が若い頃の言葉遣いの悪さと、さほど変わらない。私の子供たちが、私たちとはまったく違った言葉遣いをしていると感じることは少ない。娘も倅も、昔ながらの東京の言葉遣いである。

 たとえば、メディアでよく、「うぜえ」「まじやばす」「~なくね?」「とりま」「ちょりーす」などという言葉が取り上げられるが、私の子供たちはまだ、そういう言葉を使わない。いったい、何歳くらいからこういう言葉遣いをするようになるのだろう?

 というか、実際に、そういう言葉遣いが、<ごくごく普通の言葉遣い>として使われているのだろうか? 私は、テレビ以外で、そういう言葉遣いをする人を見たことがないのだけれども。

 ただし、我が子と話をしていて、気になる言葉がひとつだけある。倅がよく使う、<俺>である。倅は、まだ、第一人称は、<僕>と<俺>が半々だが、むろん、<俺>という言葉が悪いわけではない。私も、日常的には<私>という第一人称を使うが、ごく親しい人とのくだけた席では<俺>である。

 問題はアクセントだ。我々が使う<俺>の場合、平板なアクセントだが、倅の場合は、<お>にアクセントがつく。テレビアニメの「クレヨンしんちゃん」で、しんちゃんが<オラ>というときと同じアクセントだ。倅だけではなく、今の男の子たちは、このアクセントで<俺>というケースが多い。

 こないだも倅に、
「俺って言ってみ」
 と言うと(考えてみれば、この~してみ、というのも、我々が若かった頃の若者言葉である)、
「俺」
 と、<お>にアクセントをつけていう。何度繰り返しても同じことだった。もう身に染み付いているらしい。

 このアクセントの俺、に気づいたのは、7~8年前のことだったと思う。当時の小学生や中学生が、頭にアクセントをつけて、俺、俺、と言っているのを聴いて、びっくりしたことがある。とうとう我が子もか、といったところだが、おそらく、若い世代には定着しているのだろう。

 こういったものは、<同世代間だけで伝わる符丁、流行り言葉>というだけでは説明できないように思う。

 いっとき、若い人の言葉が、平板アクセントになっていることが指摘された時期があるが、実は、大人の世界でも、ある時点で、がらりとアクセントが変わってしまっている。

 文章でアクセントを表現するのはなかなか難しいけれど、私自身が使う言葉でも、<電車><映画><戦後><ギャラ>などは、明らかに30年ほど前とはアクセントが変わってしまっている。もちろん、私は、意識してアクセントを変えたわけではない。いつの間にか、ごくごく自然にそうなってしまったのだ。

 それらは、元々は頭にアクセントがあったのが、平板になった、という変化である。しかし、<俺>の場合は、元々は平板だったものが、頭にアクセントがつくようになったという事例で、ほかの例とは逆行している。どうして、こういうことが起こるのだろう? 興味深く、とても面白い。

 言葉は時代に応じて変化していく。現在は、超高度情報化社会であるから、そのスピードも速いのかもしれない。それにしても、書き言葉にしても、話し言葉にしても、<言葉>というものは面白い。私は<言葉>が大好きである。今後も、子供たちの言葉遣いの変化も含めて、言葉の変化というものを追いかけていきたい。
スポンサーサイト
[ 2009/02/25 20:35 ] 日常生活 | TB(0) | CM(-)
トラックバック
この記事のトラックバックURL

来訪者数
松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

メールフォーム
松井計への仕事のご注文は、松井計事務所にご連絡ください。下のアイコンをクリックすると、メールフォームが開きます。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。