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誕生日(ルーツのことなどを)

 日付が更わって、7月5日になった。今日は、私の誕生日である。私が生まれたのは、昭和33年7月5日午前0時5分。とうとう50歳になってしまったわけだ。もはや、今は亡き母も、敬愛する作家・三島由紀夫も、かなり年下の人である。

 そう考えると、自分の年齢が恐ろしくもある。歳を取ることが怖いのではない。年齢相応の成熟を自分自身が遂げているかとなると、まったくその自信がないから、それが私を恐れさせるのだ。果たして私に、人間としての成熟などというものが訪れるのだろうか? そう考えると、恐れや焦燥といった、負の感情から自由ではない。

 昭和33年の7月5日も、今年と同じように土曜日だった。私の母親喜美榮は、当時、27歳。小学校の教員で、1年生の担任だった。実は、私は、予定日よりも1月ほど早く生まれている。7月4日の授業中、突然、母は陣痛に襲われた。そのまま、病院に搬入されて、日付が更わってすぐに私が生まれたのだ。

 当時、母が担任していたクラスの子供たちの驚きはいかばかりだったろう。小学校に入学してまだ3ヶ月。ちょうど私の倅が今、その年齢だが、妊娠や出産ということが、きちんと理解できるわけもない。突然、担任の先生が教室で苦しみ始めたときの、子供たちの動揺が、目に見えるようである。私は、<人騒がせ>な形でこの世に生を受けたのだなあ、と考えざるを得ない。

 私の<松井>という姓は、母方のものである。父方の姓は飯田だ。平たく言えば、父官治は松井家に婿養子に入ったのである。というのも、松井家は典型的な女系家族で、代々、女の子が一人しか生まれない。私が物心ついた頃には、父は電電公社員で、母は教員であったが、かつての松井の家は、かなり大きな商家であったそうな。母が生まれた家には、百帖の大広間があったというから、羽振りがいい時期もあったのだろう。

 だから、代々、松井の家では、一人だけ生まれる娘に婿養子を取って、家系を繋いできたわけである。そういう経緯があるから、母の妊娠中も、生まれてくるのは女の子に違いないと思われていたらしい。私のための産着や蒲団の類は全て、女の子用のものを揃えてあったという。

 ところが、生まれてみたら男の子である。それを一番、喜んだのが、私の曽祖父に当る正三郎だ。些か話が複雑になるから、少し、説明が要る。私の母は、両親をほとんど知らず、祖父母に育てられた人である。というのは、前述のように、松井家は代々、娘に婿を取ってきたわけだが、正三郎は、お店(たな)の番頭だった重夫を、一人娘節子の婿にした。これが、昭和の始めの出来事である。

 ところが、この夫婦の間に喜美榮が生まれたすぐ後、重夫は松井の家を出てしまう。詳しい事情は知らされていないが、おそらく、婿としての生活がキツかったということであろう。重夫の出奔後、まだ若い節子を不憫に思った正三郎は、彼女を大阪で書店を経営する青木家に嫁に出し、喜美榮は正三郎夫婦の手で育てられることになったのである。

 母は、正三郎夫婦をずっと、実の両親だと思っていたそうだ。そうではなく、実は祖父母だと知ったのは、女学校に入学するときだったそうな。この時、どれだけショックだったかを、後々、母は私に何度も語ってくれている。話が前後するが、もうひとつややこしいことに、正三郎の妻、み子よ(みねよ)は後妻で、母とは血の繋がりはない。

 正三郎とみ子よとの出会いのエピソードは、旧い上質の日本映画の一シーンを見るようである。正三郎の先妻、サカエがみまかったのが、大正11年1月のこと。今、位牌で確認すると、享年37である。彼女の葬儀の日、雪が舞う中を、み子よは、人力車で松井家の前を通ったのだそうな。
「大きなお葬式だこと。どういう人が亡くなったのかしら」
 と、み子よは思ったという。そして数年後、彼女は松井の人となる。

 自分が両親に育てられたのではなく、祖父母に育てられたのだということは、生涯、喜美榮の傷となった。私は、確か、高校に入った頃のことだったと記憶するが、父と母が交際中に交わした、夥しい往復書簡を見せられたことがある。その中の、母が父に宛てた手紙には、
「松井の家では、父・重夫の名前はタブーです」
 と何度も書いてあった。それはおそらく、愛する人と決めた父に対する、母の心の叫びだったのに違いない。

 また、私が小学生のころ、母は実の母節子と再会を果たし、節子が再婚後に成した二人の娘も含めて、我々との交遊が始まった。母の妹たちは、私にとっては、大好きなお姉さんたちだった。しかし、それでも母は、
「私は、あの子たちを妹だと心から思えたことは、一度もないのよ……」
 といった。

 些か説明が長くなった。私が生まれた時、間違いなく女の子だろうと思われていて、産着など女の子用のものを準備していたという話に戻る。生まれたのが男の子だと知った正三郎は、夜が明けるのを待って、改めて、男の子用の産着や蒲団を買いに走ってくれたのだそうだ。彼は、私の誕生を、心から喜んでくれたらしい。ただ、残念なことに、正三郎は翌年、昭和34年にみまかったから、私には彼の記憶がない。

 私が聞かされている正三郎の死のエピソードも印象的だ。彼は、死ぬ前の晩、いつものように、私を膝に抱きながら、み子よにぬる燗にさせた日本酒を、ほぼ一升飲んだのだそうな。で、
「120年ぶりに男の子が生まれたし、酒も旨かった。もう俺は思い残すことはないよ」
 笑いながらいって、床に就き、そのまま眠るように死んだのだそうだ。享年88。私の酒好きは、正三郎の血を引いたのかもしれない。

 今や、往時を知る人は、ほとんどいない。現在、松井の姓を名乗る身内は、私と妻と、二人の子供たちだけである。

 先々週の土曜日、6月21日は、倅の7回目の誕生日だった。私は今、子供たちと週に一度、毎週土曜日にしか会えずにいるが、その土曜と、倅の誕生日が重なったのは幸運だった。倅の誕生日を家族で祝っていたら、彼が唐突に、
「ねえ、パパのパパやママはもう死んだの?」
 と聞いてきた。彼にとっては、祖父母である。関心があっても不思議はない。彼の同級生たちには、ごくごく普通に、祖父母が存在するのだから。
「そうなんだ。君達が生まれてくるずっと前に死んじゃったんだよ。残念だったね。もし、今でも生きていてくれたら、今日は君の誕生日を、ほんとうに喜んでくれたと思うよ」
 私はいった。倅は、しばらく黙って、何かを考え込んでいる様子だった。

 私は、両親や曽祖父母の記憶を、子供たちに語ってやりたいと思った。それは、彼らのルーツにも関ることだからだ。今や、それができるのは、私をおいてほかにない。人間は、突然、自分ひとりでこの世界に生まれてきた孤独な存在ではなく、一人ひとりの存在は、脈々と続く、命の連鎖の中にあるのだということを、子供たちにも伝えていければ、と思う。

 それにしても不思議だ。子供を授かってから、自分の誕生日になると、まず、彼らが生まれた日のことを思い出す。これこそがまさに、私が命の連鎖の中に存在しているということの証なのだ。それを実感できただけでも、妻や子供たちには感謝しなければならないだろう。

 妻よ、娘よ、倅よ、ありがとう。私は、自分の誕生日は、君達や、私を生んでくれた母や父、そしてそれを祝福してくれた人たちに感謝するためにある日だということを知った。

 ところで、私は、この項の冒頭で、自分の年齢が恐いと記した。むろん、そこに偽りはない。しかし、それと同時に、私は、素晴らしい年齢を迎えた、とも実感しているのである。なぜかといえば、私は、50代という世代は、作家が、最も作家らしく振舞え、最も活躍できる世代だと考えているからだ。そう考えると、私は今日から始まる日々が楽しみで仕方がない。読者諸賢にも、この思いを共有していただけるような作品を、どんどん書いていくつもりである。期待して欲しい。 

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[ 2008/07/05 01:18 ] 日常生活 | TB(-) | CM(-)
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松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

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