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アーカイブ原稿①自殺問題ルポルタージュ(未発表)

執筆……2005年11月
初出……未発表

 二〇〇五年六月に警視庁生活安全局地域課が発行した「平成一六年中における自殺の概要資料」によると、二〇〇四年には全国で三万二千三二五人が自殺している。前年比で二千一〇二人、六・一パーセントの減少ではあるが、これで九八年に初めて自殺者が三万人を越えて以来、七年連続の自殺者三万人超えとなった。人口一〇万人当りに占める自殺者数を表す自殺率に直すと二五・三。実に、一年間に、一〇万人中二五人以上が自殺する計算になる。これは、高度経済成長が始まる直前の一九五七年の自殺率に匹敵する数字であり、過去一〇〇年間の日本の自殺率としては、最高水準なのだ。
 自殺の原因・動機では、初めて自殺者が三万人を越えた九八年を境に、はっきりと「経済・生活問題」が増えており、それに伴って、働き盛りである四〇代、五〇代の自殺が増加傾向にある。まさに、現在の自殺問題の焦点は、<経済問題>であるといってよかろう。
 この数字は、実際に死んだ人だけをカウントしたものであるから、自殺を試みたものの、どうしても死にきれなかった自殺未遂者や、経済苦に悩み、常に死という選択肢を考えながら、重く苦しい日々を生きている人たちは含まれていない。この数字の背後には、数倍の<死を思いながら生きている>人たちがいるわけである。そう考えると、この国も、なんとも殺伐とした社会になってしまったものだ。
 そこで私は、実際に経済問題に苦しみ、自殺未遂の経験がある人に会い、その時の心境や、その後の生活を聞いてみた。実例を調べることによって、この数字の持つ、悲劇的な意味がよりよく理解できると考えたからだ。
 首都圏のある私鉄駅。都心からそれほど離れていないのに、各駅停車だけしか止まらないためか、駅前はひっそりと静まりかえっている。私は、駅近くの喫茶店で、今年四八歳になる佐藤義男さん(仮名)と会った。
「今思いますとね、まともな精神状態じゃなかったですね。ものごとを理屈で考えることがまったくできなくなっていたように思います」
 佐藤さんは、コーヒーカップには手を付けず、私の目を見据えたままそういった。彼は、四年前の夏、四三歳のときに自殺未遂事件を起こしている。原因は生活苦だった。
「七年ほど前までは、中堅規模の事務機器を扱う会社に営業職として勤めていました。でも、バブルの崩壊以降、お定まりの営業不振で、徐々に収入も減っていきました。給料も下がる一方で、最盛期の半分近くまで落ち込んでしまいました。経費も節約節約で、営業活動に支障をきたすほどでした」
 佐藤さんの最盛期の収入が、年収ベースでおよそ七五〇万円。それが不況の影響で四百万円台にまで減ってしまった。やがて佐藤さんはこのまま会社にいても、先行きにはまったく見通しがない、と考え始める。三六歳のときに買ったマンションのローンは、収入が減らないことを前提に組んであったので、支払いが苦しくなってもいた。二人いる子供は、小学五年生と三年生で、これからまだまだ、金がかかる。奥さんもパートに出て家計を支えたが、焼け石に水に近い状態だった。
「そこで転職を決意するわけです。今思うと、甘い判断だった、といわれても仕方がないんですが……」
 やっとコーヒーカップを口に運んだ佐藤さんは、悔恨を込めた口調でいった。今思うと、あのときが転機だった、と。佐藤さんが選んだのは、住宅リフォームの営業職で、完全歩合制の仕事だった。契約が取れれば取れるほど、収入が跳ね上がる。しかし、逆に契約が取れなければ、まったく保証はないわけだ。
「求人広告には月収二〇〇万も可能とありました。もちろん、それを鵜呑みにしたわけではありません。でも、前の会社でも、かつては好成績を上げていましたし、収入が減ったのはあくまでも会社の責任で、自分に能力がないわけじゃない、と考えていたんでしょうね。二〇年近く営業をやっていたわけですから、その時の人脈もある。前の会社にいたときよりは収入を増やす自信はありました」
 ところが、思惑通りにはいかなかった。契約が取れて、前の会社にいたとき以上の収入を得た月も確かにありはした。が、ほとんど契約が取れず、収入が少ない月もある。安定しないのだ。一年働いてみると、前の会社にいた時の三分の二程度の年収にしかならなかった。それも、前の会社時代の人脈を駆使し、親戚や友人のほとんどに声をかけての数字である。
「これ以上働いても収入は減る一方だと思いはしました。でも、また転職したところで、今よりいい条件が得られるとは思えない。更に景気は悪くなる一方でしたからね。私はもう、ここで頑張るしかないと覚悟しました」
 佐藤さんは今までにもまして、仕事に勢を出したが、なかなか結果に結びつかない。しつこく勧誘を続けるので、一人二人と友人も彼のもとを去っていった。そんな頃、この会社が顧客トラブルを起こし、それも佐藤さんの仕事に暗い影を落とした。が、それでも月々のローンは支払わなければならないし、妻子の生活もある。転職して一年数ヶ月経ったとき、佐藤さんは初めて消費者金融から借金をする。最初に借りたのは三〇万だった。
「でも、返せる宛てがあって借りた金ではありませんから、月々の返済期日が近づくと、また別のところから金を借りて返済に当てるわけです。ですが、恐ろしいのは、収入が足りないから借金をしているわけで、返済額だけ借りるわけではないんです。返済に必要な額プラス、そのほかに必要な金まで借りてしまう。もちろん、妻の名義でも借金をしました」
 こんな自転車操業が、ほぼ一年続いた。が、やがて破綻がやってくる。消費者金融への返済が滞り、新たな借り入れができなくなったのだ。三〇万から始まった借金は、新たな借り入れの繰り返しで、三〇〇万近くに膨れ上がっていた。
「この頃になると、夫婦仲も険悪になり、喧嘩ばかりです。いつも金のことが原因でね」
 やがて、佐藤さんが手を出したのが、俗にいう闇金業者である。都道府県知事や財務省の認可を受けない、無登録の業者だ。こういう業者は、簡単に金を貸してくれる代わりに、法外な利息を取る。まず、一度目は二万円を貸してくれた。が、五日後には一万円の利息を足して、三万円を返済しなければならない。これを返済すると、実績がついて、二度目は三万円貸してくれた。しかし、やはり返済は五日後で、今度は五万の返済である。次には七万円を貸してくれるが、同じ期日で一〇万円の返済。どうしても五日後に完済できない場合は、利息だけを払ってまた五日間ジャンプすることもできる。しかし、このやりかたでは元金はまったく減らないから、五日ごとに多額の金を毟り取られることになる。佐藤さんはとうとう、底なし沼に足を踏み込んでしまったのだ。
「一般の消費者金融と違って、闇金は取り立ても厳しいですからね。遅れないようにするために、消費者金融の時と同じように、闇金を何社も掛け持ちして借金することになりました。この頃になると、情けない話で、考えるのは金のことばかりです。一度、金策に歩いていて、めまいがして路上で倒れかけたことがあります。そのときに、車に轢かれそうになった。そんなときですら、轢かれていれば少しは金になったのに、と考えるありさまでした」
 マンションのローンも滞り、管理組合の会費も払えなくなった。毎日のように、消費者金融やローンの督促状が届く。給料が入れば、そのまま闇金の返済に大部分が持っていかれる。子どもの給食費は、銀行の口座からの引き落としになっていたが、それまで滞るようになった。やがて、そんな生活も半年を過ぎ、佐藤さんは運命の日を迎える。
「妻がもう一度だけ、親に金策を頼んでみる、といって、子どもを連れて実家に帰ったんです。もう何度も金を用立ててもらってましたし、それほど裕福な親でもなかったから、金が借りられる可能性はゼロだったんですが、妻も親の顔を見て、甘えたかったんでしょう」
 離婚すれば奥さんが楽になるのであれば喜んで離婚するつもりだったが、このときには既に奥さんも多重債務者で、パートの経験しかない彼女が、収入の多い仕事に就けるとも思えなかった。
「実は、私は、苦しい生活の中でも生命保険の支払いだけは続けていたんです。無意識のうちに、いつかこの日のために……と考えていたのかもしれません。いや、それも本当は言い訳かもしれない。私はただ、苦しい生活から逃げたかっただけかもしれない……」
 当時を思い出したのか、佐藤さんは腹の底から絞り出すような声でそういった。この時点で、佐藤さんの借金は、前述の消費者金融で借りた三〇〇万に加え、住宅ローンの残高が約三千万円。闇金業者のほうは、ジャンプを繰り返しているので、いったい、自分が今までにいくら支払って、残額がどれくらいになっているのか、佐藤さん本人にも判らなくなっているほどだった。
「借金の総額が問題というよりも、月々やってくる支払いが苦しくて仕方がなかったんです。住宅ローンにしても、毎月一四万ずつ払い、ボーナス時には五〇万近く払わなければならない。支払日が近づくたびに、気が変になりそうでした。いつまでこんなことが続くんだろうと……」
奥さんと子どもが実家に帰り、自宅マンションに一人きりだった四年前の夏の夜、佐藤さんは、安いウイスキーを買ってきて、鼻をつまんでそれを一本まるまる飲んだ。その上で、台所にあった包丁で、左の手首を切った。あらかじめ、風呂桶に張っておいた水に左手を突っ込んでおくつもりだったが、そうできたかどうか彼は覚えていないという。風呂場のドアを開けたところまでは記憶があるが、それ以降は、酩酊してまったく記憶がないというのだ。
 佐藤さんが気がついたのは、病院のベッドの上だった。妻と子供二人の顔が目に入った。後に聞いたところによると、彼女らはずっと佐藤さんを看病してくれていたらしい。
「私が意識を取り戻したときに、子どもが、本当に嬉しそうな声で、『パパが気がついたよー』と叫んだんですよ。妻も、よかった、といって泣き始め、家族四人でわあわあ泣きました。私はなんてことをしたんだ、と思いましたよ」
 退院後、佐藤さんは債務の整理を考え始める。弁護士にも相談し、圧縮できる債務は何とか圧縮して、返済したかったのだが、弁護士の意見は、それは無理、というものだった。しかたなく、佐藤さんは破産という方法を選んだ。
「破産だけはしたくなかったんです。人に迷惑をかけることになりますからね。しかし、このままの生活を続けていても、妻子を始めいろんな人に迷惑をかけるのは同じです。ならば、一度、全部きれいにしてやり直そう、と考えました」
 今の佐藤さんは、住宅リフォームの会社も辞め、前に勤めていた会社の取引先に、職を得て、地道に働いている。子供二人もアルバイトをしながら高校に通う身だ。破産に伴い、マンションを手放したから、住居も都営住宅に変わった。今は幸せだ、とはっきり佐藤さんはいう。私は最後に、年間自殺者の数字を彼に告げ、どう思うか聞いてみた。
「どんな理由をつけようと、自殺は逃避だと思います。私もあのまま死んでいたら、子どもたちまで責任を感じて、彼らの一生も狂っていたでしょう。苦しくても生きるべきです。私みたいな人間でもやり直せたんだから、やり直せない人なんていませんよ」
 清々しい表情で、佐藤さんはそういってくれた。が、私は、その顔を見ながら、少し、複雑な心境になっていた。私も数年前に経済問題に苦しんだことがある。その結果、半年間の路上生活まで経験することになった。だから、佐藤さんが徐々に追い詰められていった心境は、まさに我がこととしてよく理解できる。しかし、そうであって尚、借金の返済のために借金を繰り返すなど、彼の選択が間違っていたのではないか、と思える点も多々あったからだ。それは、彼の<真面目さ>を表すエピソードかもしれないが、真面目さが死を選ぶ結果に繋がったのでは、まさに本末転倒そのものである。そう考えると、あるいはひょっとしたら、佐藤さんの自殺未遂は、回避可能なことだったのかもしれない。また、私は路上生活時代やその後、日本のホームレス問題について調べているとき、職に就きたいのに就けないという、中高年のホームレスの声を何度も聞いた。彼らは、職にさえ就ければ、こんな生活から抜け出せるのに、と、その苦しい胸の内を私に語ったものだ。借金を繰り返すことになったにせよ、一度も失業することのなかった佐藤さんは、あるいは幸福な立場だったかもしれないのである。彼には、そのことを忘れて欲しくないと、私は思った。
 年間三万二千三二五人が自殺するということは、単純計算で一日の自殺者が約八八人。一時間に三人強が自殺する計算になる。私が佐藤さんの話を聞いたのがほぼ三時間だったから、この間にも一〇人の自殺者が出る計算だ。そんな社会はやはり、異常である。苦しかった日々を思い出したのか、遠くを見るような眼でコーヒーを飲み干した佐藤さんの顔を見ながら、私はそう思った。
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[ 2007/03/01 23:43 ] アーカイブ | TB(-) | CM(-)
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松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

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