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庶民という幻想

 テレビで民主党政権による<事業仕分け>を見ていたら、宝くじ事業を取り上げていた。私は、その内容について云々するほどの知識は待ち合わせていないが、驚いたのは、仕分け委員が、それがさも当然であるかのように、宝くじのことを<庶民の夢>と表現したことである。官僚機構が、庶民の夢を食い物にしている、というような文脈だったと思う。

 私は、激しい違和感を覚えた。仕分け委員は、むろん、議員か議員によって任命された識者である。そのような人にとっては、宝くじが<庶民の夢>であるという前提概念が存在するようである。なるほど、政治家と一般選挙民の意識は、ここまで乖離しているのか、と暗澹たる心境になった。

 ところが、その晩、テレビ朝日の「報道ステーション」を見ていて、私は更なる違和感に苛まれることになった。私は、この番組が嫌いではない。何年か前に、VTRで出演したこともある。各局が流している夕方や夜のニュースショーの中では良質なほうだと思っている。しかし、その司会者である古館一郎が、件の事業仕分けのニュースを伝えるとき、これもまた、さも当然の如くに、宝くじのことを<庶民の夢>と表現したのである。こうなるともう、<庶民の夢>という言葉は、<宝くじ>の枕詞と化した感がある。

 ところで、では実際に、<宝くじ>を自らの<夢>だとみなしている<庶民>という層が存在するのだろうか? 私は宝くじを買ったこともあるし、そう高額ではないが、何度か当たったこともある。1億円が当たるというのなら、それがイヤだとも思わない。しかし、夢を賭して宝くじを買ったことは、一度もないし、クジに当たって、多額の現金を手にすることが、自分の夢だなんぞと考えたことも、一度もない。

 定期的に宝くじを買っている人も、おそらくは似たような心境なのではないか? 1500円出して本を一冊買う、1800円出して映画館に入る、250円でDVDを借りてくる……といったことと等価として、3000円出して宝くじを10枚買う。それが、普通の人の心境だろう。つまりは、一般の人間にとって、本や映画、居酒屋へ入るのと同じエンターテインメントとして、宝くじも存在しているはずだ。 

 もちろん、ほかのエンターテインメントと違うのは、宝くじはバクチであるから、買った後に、金が増えて返ってくる可能性がある点だ。しかし、これにしても、私はやらないから実感としてはよく判らないけれども、パチンコをしたり、競輪競馬に行ったり、マージャンをしたりするのと同じ心境だろう。ギャンブルを楽しむ人は、ギャンブル自体が楽しいわけで、その後に転がり込んでくるかもしれない大金を夢見てギャンブルをするわけではない。

 実際に、仕分け委員にしても、古舘にしても、パチンコや競馬を<庶民の夢>とは表現するまい。では、それらと宝くじとはどこが違うのか。賞金である。今の宝くじは、一等が1億円を越える、いわゆるジャンボ宝くじも多くなった。そう考えていくと、仕分け委員や古舘が<庶民の夢>と口にするとき、想定しているのは<1億を超える金>ということになり、彼らは、「庶民というのは、宝くじに当たって、濡れ手に粟の1億を手にする夢を持っている」と言っていることになる。まあ、無意識のうちに、のことだろうが、論の展開から言ってそうならざるをえず、仮に無意識でいるとすれば、そちらのほうがずっと恐ろしい。つまりは、彼らは、<庶民>というものをナメているのである。

 自分たちにとって、宝くじは夢ではないが、庶民には夢である――という論理を内包したとき、すなわちそこには<庶民>というものに対する軽侮が存在することになる。

 そこで私は繰り返し悩むのである。実際に、<宝くじを人生の夢>とする<庶民>なるものが存在するのかどうか。私は、前述のように、そんな人はほとんどいないと思う。私もそうだが、宝くじを買うとき、当たると思って買う人は少ない。当たるはずがない、と普通は思っている。実際には、数万円が当たることもあるし、300円が戻ってくるだけのこともある。それを親しい友人や家族と話のタネにして、宝くじはおしまいである。別段、当たらなかったことをいつまでも悔やむこともない。つまりは、そういう話のタネのために、3000円程度なら出してもいい、と考えているのが、大半の宝くじファンのはずである。

 仕分け委員や古館には、その辺りが理解できていないのだろうか。それならばそれで、まだ深刻さの度会いは低い。彼らの品性が低いだけである。そうではなく、彼らが、この世界に<庶民>という、自分たちの行動規範とは全く違う規範に基づいて行動する層がいる、と見なしているとすると、事はひどく深刻になるはずだ。それこそ、政治家や著名人と、一般選挙民の間に、埋めがたい乖離が存在することになるからである。

 私は最近、もう一つ、似たような事例に遭遇した。昼のニュースショーだったと思うが、舛添要一が出演していた。昼の番組らしく、〇と×を書いた棒を持たされており、司会者の質問に、〇か×のどちらかで答える趣向だった。司会者が、
「今朝もゴミ出しをしてきた」
 と質問したとき、舛添は×を出し、
「だって、今日はゴミの日じゃないもん」
 と言った。そこまででよしておけばいいものを、彼は、<生ゴミの日は何曜日>なんぞということを言い始めた。

 私はよく知らなかったのだが、舛添という人は、朝、自宅を出る時に、ゴミ出しをするところをカメラに撮らせる趣味があるらしい。つまりは、そういう姿をテレビの画面に流すことによって、自分の<庶民性>をアピールする作戦だろう。そういう行為が<庶民の琴線に触れる>と見なしているわけだ。

 ところが、前述の言葉で、気の毒なことに、その作戦が無力化してしまった。というのは、舛添は私と同じ世田谷区民のはずである。世田谷区には、<生ゴミの日>などというものはない。今は、<燃やせるゴミ>ないしは<燃えるゴミ>といっている。私は、言葉尻を掴まえているわけではない。ゴミの分別の仕方が変わったのである。前は、<燃えるゴミ>は、それこそ生ゴミ、紙屑、布キレくらいで、包装紙などに使ってあるポリやプラなどは<燃えないゴミ>に分別しなければならなかった。これならまあ、一歩を譲って<生ゴミの日>と称してもよかろう。

 それが昨年だったかに分別の仕方が変わって、陶器や鉄、割れたガラスなどのほかは、ポリでもプラでも、<燃えるゴミ><燃やせるゴミ>として出してよいことになったのである。昔からこれらのものはよく燃えたのだけれど、燃やす際に出る熱の温度が高すぎて、焼却炉が損傷する危険があった。それを、新たな焼却炉に変えたから、すべて燃やせることになったのだ。この変更で、ゴミの分別が、飛躍的に楽になった。しかし、そうなるとこれを<生ゴミの日>と表現するのは無理である。

 この辺りのことをあわせて考えると、次のようなことがいえそうである。舛添は、確かに、少なくともテレビカメラのいるところでは、ゴミ出しをする。しかし、細かな分別法については知らない。つまり、舛添は、ゴミ出しはするが、ゴミの分別はしない。奥さんなのかお手伝いさんなのか知らないが、家の人間が置いておいたゴミ袋を、ゴミ捨て場に持っていくだけである――と。

 私は、別段、これが非難されることだと思わない。しかし、舛添が分別の方法も知らないのに、自分がゴミ出しをする人間だ、という点をアピールする姿勢が気に入らない。つまりそれは、<そういうことが、庶民には好印象を与える>と、舛添が考えていることになるからだ。それは、あなた、選挙民をナメ過ぎてはいませんか?

 最後に、仕分け委員や古舘氏、舛添氏には一言しておきたい。あなたたちが想定しているような、<庶民>なんぞというものは、この世に存在しませんよ。存在しないものに阿るよりは、<一般の選挙民も、自分たちも同じである>という基本的なところから出発したほうがよいのではありませんか? それとも、そうすることによって、あなた方のどこかが傷つくのでしょうか?
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[ 2010/05/24 17:19 ] 政治 | TB(0) | CM(-)
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松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

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