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アーカイブ原稿22「太平洋戦争の落とし穴」第7回

■「太平洋戦争の落とし穴」第7回『日本の常識で多くの捕虜を〝殺害〟』
■初出……「日刊ゲンダイ」2005年12月5日号

 日本の常識は世界の非常識――。その典型例がフィリピンでの捕虜虐待事件だ。41年12月23日、本間雅晴中将指揮の第14軍はルソン島に上陸、フィリピン攻略戦が始まった。このとき米比連合軍を指揮したのがあのマッカーサーである。

 米比軍は首都マニラを放棄して退却、バターン半島のコレヒドール要塞に立てこもった。日本軍は翌42年1月2日、マニラ無血入城に成功し、コレヒドールを攻撃。篭城戦の末、米比軍は4月10日に降伏した。マッカーサーは「アイ・シャル・リターン」という言葉を残して敵前逃亡していた。
 捕虜になった米比軍の兵士は約5万人。軍とともに半島に逃げ込んだ一般市民も2、3万人おり、日本軍は8万人近くの捕虜を抱えることになった。捕虜の多くはマラリアやデング熱に感染し栄養失調になっていた。
 日本軍は北方に約60㌔離れたサンフェルナンドに収容所を建設し、そこに捕虜を移動させることにした。しかし多数の捕虜を乗せるトラックがないため、捕虜を歩いて移動させることにした。
 体力の弱った捕虜たちは行進初日から倒れる者が続出した。日本軍は列から外れる者を容赦なく殴り、飢えや病気で倒れた者を殺害した。米比軍捕虜の死者数、実に2300人。この惨状は「バターン死の行進」と呼ばれ、米国人の反日感情を高めることになった。
 戦後、本間らはマニラ戦犯裁判でこの責任を問われ、処刑された。日本の軍人にとっては長距離を歩いて移動するのは当たり前のことであり、捕虜を虐待しているという意識はなかった。日本人の常識が世界に通用しなかった好例である。
 現在の日本はどうか。靖国参拝の姿勢を頑として変えない小泉首相の態度などを見ると、戦後60年を経て何も変わっていないように思える。
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[ 2009/07/07 23:51 ] アーカイブ | TB(0) | CM(-)
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松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

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