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話し言葉の変化(相槌について)

 来月から、夕刊紙で時代小説の連載を始めることになり、先日、その打ち合わせもあって、担当記者と京王線下高井戸駅前の居酒屋で呑んだ。店はかなり混んでいて、アルバイトらしい若い男の子が、すぐに席を作るから、しばらく待っていて欲しいという。それに従い、レジの近くで待っていると、その男の子がまた戻ってきて、
「メニューです。待つ間に、料理を選んでおいてください」
 といった。

 これを無礼と考えるか、手回しがいいと考えるかは意見の分かれるところだが、この際、それは措くとしよう。その言葉を聞いて、夕刊紙記者が、
「とうとう、メニューもメニューになりましたか」
 苦笑しながらいった。

 
 書き言葉というのはなかなか難しい。少し説明しなければ、何のことだか判らないと思う。彼が口にした最初の<メニュー>は、頭にアクセントのある昔ながらの発音で、あとの<メニュー>は平板アクセントの発音である。彼は、店の男の子の発音が、平板アクセントになっていて、しかも、それが、<メニュー>という単語にまで及んでいることを指摘したわけである。

 席についてからも、しばらく平板アクセントの話になった。彼の弟が昔、サーフィンをやっていて、その頃、弟と一緒に湘南にいくと、サーファー連中はみんな、平板アクセントで話していて驚いたという。平板アクセントに気づいたのは、それが初めてだった――と彼はいった。彼は私と同い年なので、もうかれこれ30年近く昔の話だろう。

 私もその頃、学生仲間とロックのバンドを組んでいて、当時の音楽好きの連中は、ギブソンとかフェンダーとかいう楽器メーカーを平板アクセントで発音していた、という話をした。そう考えてみると、平板アクセントの問題は、当時の若者言葉として発生したものなのかもしれない。

 メディアでもよく、若者の言葉の平板アクセントが話題になるが、実際には、若者に限らず、我々の世代の言葉も、昔と比べればある種の単語のアクセントが平板化している。それは、本ブログ内の記事「文章、話し言葉」でも記したとおりである。それを彼に話したところ、
「いわれてみれば、そうですね」
 と、今更ながら、それと気づいたようだった。

 つまり、話し言葉というものは、徐々に変化していくものであって、旧世代は、常に新たな言葉の変化に違和感を覚えながらも、知らず知らずのうちに、自分もその変化に飲み込まれていく――ということなのだろう。今回、彼のところで連載を始めることになった時代小説の、作中人物の会話も、当然のことながら、現在の我々が使う言葉とは大きく違う。同じ日本語の会話でありながら、である。だからこそ言葉というものは面白い。私は、そう考えたいタイプだ。

 しかし、そんな私であっても、これは間違った変化だろう、と思えて、腹に据えかねることがある。オフィシャルな場所で、初対面かそれに近い人物と話している時に、「うん、うん」と相槌を打たれるケースである。

 最近、これが実に多い。特に、役所などの公的機関に電話をかけた時に、こういう対応をされることが目立つ。電話に出る相手は、当然、こちらの知らない人物である。だから、私は、普通の良識ある大人として、です・ます調で、丁重に話す。にもかかわらず、相手がそれを、
「うん、うん」
 と相槌を打ちながら聞くケースが極めて多い。

 常識的に考えて、これほどの無礼はないのだが、私も、ま、事を荒立てるのが好きなタイプではないから、最初のうちは穏やかに聞いている。ところが、いつまでたっても改まらない。先方は徹頭徹尾、「うん、うん」である。

 こうなるともう、黙っているのは精神衛生上、極めてよくないから、私は、はっきり諌めることにしている。
「私とあなたは、面識もありません。しかも、今回はオフィシャルな用件でお電話しています。なので、私は、さきほどから丁重にお話しさせてもらっているつもりです。なのに、あなたが『うん、うん』と相槌を打つのは、おかしいのではないですか?」
 と指摘する。

 すると、たいてい、相手はビックリする。
「え、私、『うん、うん』といっていましたか?」
 なんぞと反応するわけだ。これは多分、オフィシャルな場でも、「うん、うん」と相槌を打つのが日常的になっていて、無意識のうちにそうしている、ということなのだろう。

 これは、平板アクセントの問題などとは比べ物にならない、日本語の大きな変化である。<です・ます>調は敬語と考えていいだろう。それに対応する相槌は、<うん>ではなく、<はい>である。では、敬語とは、どういう相手に対して使うべきなのか、という問題である。<敬語>というと、すぐに上下関係を意識する人がいて、民主主義を誤解している人の中には、「人間に上下はないのだから、敬語という文化は非民主的だ」なんぞと馬鹿げたことを口にする者がある。

 しかし、敬語の本質は、人間関係の上下を基準とするのではなく、相手との距離を基準とするのである。たとえば、私の妻は私より10歳年少だが、私の問いかけに対しては、常に、
「うん」
 と応じる。明治時代ならいざ知らず、自分の女房に<はい>という返事を求める夫がいるとしたら、ま、生い立ちか現在の生活のどちらかに、なんらかの大きな問題を抱えている、と考えてよかろう。夫婦という立場になれば、人間関係の距離は最小限にまで縮まるから、年齢やその他の条件を超えて、言葉遣いは自然に対等になっていくわけだ。

 娘や倅は、私とは、扶養する立場とされる立場で、これは私と妻の関係と違って、そこには厳然とした上下関係が存在するだろう。けれども、彼らも「うん」である。私がこれに腹を立てることはありえない。それは、我々が<家族>として、極めて近い距離にいるからである。

 自慢するような話ではないが、私はかなりな親ばかである。その自覚があるし、必要とあらば、その証拠を揃えることもできる。しかし、親と子の間にも上下の関係はなく、親子は対等の立場だと考えるほど、バカ親ではない。成人した子供に対してそう考えるのであればまだしも、うちのように、子供たちがまだ、小学生なのに、対等であるなどと考えるのは、教育や躾を放棄した戯言だとしか思えぬ。

 だから、私と子供たちが、敬語を介さずに話をするのは、<上下関係>の問題ではなく、明らかに<関係性の距離>の問題である。

 また、件の夕刊紙記者と私とが、打ち合わせをする際も、お互いに、お互いの話を、
「うん、うん」
 と相槌を打ちながら聞き合う。それを双方が不快に思うことはありえない。力関係でいえば、彼が私に仕事を発注してくれる立場だから、そこに上下関係が存在するのやも知れぬ。しかし、我々には、「うん、うん」の応対が許される。それは、<我々の距離が近い>からである。

 彼と知り合ったばかりの頃は、双方が、「うん、うん」と相槌を打つことなどありえず、「はい、はい」といっていた。その頃は、まだ、我々の距離が近くなかったからだ。しかし、その後、8年間、一緒に仕事もし、プライベイトで酒も呑みして、お互いの距離が近くなったから、今は、
「うん、うん」
 といい合える仲になったわけである。

 そのように、話し言葉というのもは、同じ人間同士で交わされるものであっても、それぞれの関係性の変化によって変わってくるものなのだ。それは、人間関係の成長が、言葉にも表れるということであり、私はそのような日本的文化が嫌いではない。日本語の豊饒性を感じる。

 であるからこそ、初対面の人間に、こちらが丁重な敬語を使っているにもかかわらず、「うん、うん」と相槌を打たれるような文化は、私には容認しがたいのである。よく知りもしない相手に、必要以上に馴れ馴れしくするのは、大人の文化ではない。これは、アクセントの平板化などと一緒にして<日本語の変化>として捉えられるべきではない、もっと重要な問題だと私には思える。人間関係の捉え方の変化――という命題を含んでいるからだ。 

 
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[ 2009/06/12 01:44 ] 日常生活 | TB(0) | CM(-)
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松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

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