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アーカイブ原稿⑩『元祖「格差の街」山谷をゆく』

『元祖「格差の街」山谷をゆく』
■初出……「週刊文春」2007年6月7日号

「いやあ、ぜんぜん仕事がないね。三月の末から、全く仕事がないよ」
 そのような状況に、もうすっかり慣れてしまったのか、Aさんは浅草警察署山谷地区交番(通称・マンモス交番)前で、時折、笑顔を見せながらそう言った。
 山谷――日本最大規模の寄せ場(日雇い労働市場)で、簡易宿泊所(通称・ドヤ)が密集する地域である。二極分化社会、不正規雇用労働者の急増などが問題視されている現状にあって、今、この街はどうなっているのか、私はそれが知りたくて取材を試みた。
 実は、「山谷」という町名は昭和四一年に廃止されており、現在は、正式地名としての山谷は存在しない。現在、一般に、「山谷地区」と呼ばれているのは、明治通りと吉野通りが交差する泪橋交差点を中心にして、荒川、台東両区にまたがる、面積約1・65平方キロの地域を指す。この辺りには、今でも多くの簡易宿泊所が軒を並べ、日雇いの仕事を求める人たちが暮らしている。高森朝雄原作、ちばてつや画の名作漫画、「あしたのジョー」の舞台となった場所だ。

 マンモス交番は、その山谷地区の中心部、台東区日本堤一丁目にある。かつては、ここを舞台にして、日雇い労働者による暴動や、交番焼き討ち事件が起こったこともある。私がAさんに話を聞いたのは、この交番の前でだった。
「昔と比べたら、仕事そのものが激減してるんだけど、特に今の時期はひどいんですよ。年度替りで、役所の仕事がないからね」
 Aさんが言う。まだ昼の三時過ぎだというのに、交番前では車座になって酒を呑んでいる一団がいるし、宛てもなさそうに街を歩いている労務者風の人も多い。
「みんな仕事にあぶれてるんだよ」
 Aさんは言った。そこには悲壮感は見受けられず、澱んだ諦念だけが横溢しているように感じられた。今、山谷に住む人たちは、ほとんどが二〇年、三〇年に亘ってここに住み続けている人たちである。従って、大半の住人が高齢者だ。Aさんは今年、六〇歳になったという。私は、その年齢を聞いて、少し驚いた。彼の風貌は、もっと高齢のように見えたからだ。
「島根から出てきたんですよ。もう三〇年以上昔だね。あの頃は忙しくて、けっこう稼げました。手配師に、明日の昼一一時からも仕事を入れておいてくれ、と頼んでおいて徹夜の仕事に出る。帰ってきて、一眠りしてから、また仕事に行く、なんて感じでね」
 Aさんは、当時のことを懐かしそうに話してくれた。
「身体はきつかったけど、よくなるのはこれからだ、と思ったんだけどね……。そうはいかなかったね。景気が悪くなって、このざまですよ」
 実際、山谷地区の寂れ方は凄まじい。マンモス交番の前から、馬道通りに抜ける数百メートルに及ぶ通りが、「いろはショッピングロード」というアーケード商店街になっている。が、三分の二以上の店がシャッターを降ろし、既に商店街としての機能を果たしていない。夫人用品の店や、玩具屋など、かつてはここに人々の生活があったことを偲ばせる店が、看板もそのままにシャッターを降ろしている。照明を落としているので、通り全体が薄暗い印象だ。人気のない商店街を、マルチーズを散歩させている老婆がいたので、声をかけてみると、偶々、簡易宿泊所の経営者だった。
「昔はそりゃあ賑やかでしたよ。仕事を終えた人が、ここでお酒を呑んで騒いだりね。そりゃ柄は悪かったかもしれないけど、活気がありましたよ」
 彼女が営む簡易宿泊所も、労働者が減ったために経営は苦しいという。できる限り頑張りたいが、廃業・転業も考えていると彼女は言った。山谷というと、危険なイメージを持つ人も多いと思う。確かに、かつては暴動なども起こっている。しかし、断言するが、今の山谷では、そのようなことはありえない。住民の減少、高齢化が進み、もはやこの街は、暴動を起こすような熱気や活力を、既に失っている。
 それに呼応するようにして、今、山谷の街は大きく変わりつつある。簡易宿泊所があった場所に、サラリーマン向けのビジネスホテルが建ったり、簡易宿泊所が転業して、外国人旅行者専用の廉価な宿に変わったりしているのだ。
 Aさんに話を聞いたマンモス交番のすぐ側を通っている吉野通りに、若い外国人の女性二人連れがいたので、話を聞いてみた。彼女らは、二一歳と二〇歳のアメリカ人の学生で、学校の休みを利用して日本にきたという。日本には一週間ほど滞在する予定で、泊まっているのは、山谷地区にある外国人旅行者専用の宿舎だ。宿泊費は一泊およそ二千円。彼女ら外国人旅行者の間では、日本で安く泊まれる場所として、山谷はよく知られているという。予約は、ホテルが英語で開設しているインターネットのサイトから、簡単にできる。秋葉原へ行って、日本のアニメのグッズを買うのが楽しみだ、と彼女たちは言った。私は、
「この辺りは、日雇い労働者の街で、今でも、仕事にあぶれた人が路上で生活しているのを知っていますか?」
 と訊いてみたが、彼女たちは互いに顔を見合わせて、小さく笑うだけだった。若い外国人であり、アニメなどの日本のオタク文化を好む彼女たちには、「寄せ場」としての山谷はイメージしづらいのかもしれない。
 面白いことに、外国人旅行者専用の宿泊施設に泊まるのは、彼女らのようなアメリカ人や、ドイツ人、イギリス人など欧米の若者が多く、新しく山谷地区にできたビジネスホテルには、中国人や韓国人など、東アジア系の宿泊者が多いという。こちらのほうは、仕事で日本を訪れた人たちだ。一種の住み分けが成立しているのだろう。見るからに、元は簡易宿泊所だったのだろうと思われる造りのビジネスホテルの看板には、日本語、英語、ハングル、簡体漢字の四箇国語が記されているのが、今の山谷ではごくごく普通の光景である。
 繊維関係の仕事で日本にきたという三六歳の中国人ビジネスマンは、
「都心にも近い場所で便利だし、なにしろ、他と比べて宿泊料が安いので、日本に来るといつも山谷のホテルを利用しています」
 と、流暢な日本語で話してくれた。つまり、現在の山谷は、昔からこの街に住む日雇い労働者と、日本国内での安い宿泊所を求める外国人たちが同居している街といってよかろう。
 取材中にも、新しく建設中のビジネスホテルの工事現場を、私は何件か目にした。しかし、働いているのは若い労働者ばかりで、一見して山谷の住人ではないことが見て取れた。山谷が新たな変貌を遂げようとしている今、昔からの住民は、既にその変化のための労働力ですらなくなっいているのだ。それほど、住民の高齢化は進んでいる。
「たまには仕事に行くこともあるけどね、毎日、ぶらぶらしてるというのが正直なところだよ。だって、この歳になるともう、仕事なんかないもん」
 と言うのは、六六歳のBさん。やはり、三〇年以上前に、東北地方から上京してきて、ずっと山谷に住み続けているという。が、ほとんど仕事をしていないわけだから、当然、彼には、ドヤに寝泊りする金もない。従って、路上生活をする身だ。そういう人たちのためにマンモス交番の近くには、住人に炊き出しなどを提供しているキリスト教系の教会や、慈善団体がいくつもある。その中のひとつ、「神の愛の宣教者会山谷の家」の宣教師に話を聞いた。この団体は韓国系で、宣教師も韓国人だという。
「ここ自体は三〇年ほど活動していますが、私が赴任したのは三年前です。ですから、私が知っているのは、寂れてからの山谷です。ドヤにも泊まれず、外で寝起きしている人も多い。冬なんかは、ひどいときには救急車が何回もきますよ」
 高齢でもあり、そのまま死んでしまう人も多いと彼はいう。死んでも家族が骨を引きとりに来るケースは少ない。そういえば、経験談を快く聞かせてくれていたAさんもBさんも、私が家族のことを尋ねると、とたんに歯切れが悪くなった。日本の経済を底辺で支えた人たちは、その人生の終わりに、いったい、何を得たというのだろうか。
 話を聞いている最中、この宣教師が、突然、
「その酒、どこから持ってきた?」
 と大声を上げた。見ると、路上に座り込んでカップ入りの焼酎を呑んでいる、六〇過ぎに見える人物が目に入った。完全に酔っ払っており、なにやら訳の判らないことを大きな声で叫んでいた。呑んだのは手にしているカップ入りの焼酎一本だけのようだから、それでここまで酔っ払ってしまうということは、かなり、体が弱っているのかもしれない。宣教師の声を聞いて、住人が集まってきた。
「酔っ払ってそのまま寝たら死んじゃうぞ」
 などと、みんなが口々に囃したてている。と、その男と同じ年恰好のCさんが私に言った。
「大丈夫だよ。死にゃあしないよ。死ぬのは生きてる人間。俺たちは生きてなんかいないだろう。生きるってのは、仕事をしたり、家庭があったりして、やっと生きてるというんだよ」
 長身で胡麻塩頭の、知的な風貌をしたこの人物は、そんな冷笑的なことを口にした。
 行政もこのような状況を座視しているわけではない。山谷地区の住民のために、東京都産業労働局と財団法人城北労働福祉センターの共管で、職業斡旋事業を行っている。が、求人そのものが減っている現状では、充分な対応も難しい。また、ハローワークが「雇用保険日雇い労働被保険者手帳」というものを発行して、仕事にあぶれた場合の、失業給付金を出してもいる。しかし、この給付金を受けるためには、前月、前々月に二六万円以上の収入が必要であり、AさんやBさんのように、ほとんど仕事がない状態では、この恩恵も受けられない。しかも、手帳を発行してもらうためには、住民票が必要だから、路上で生活している人には、そもそも受給資格がないことになる。この辺りの事情は、生活保護や年金、介護保険も同じだ。
 が、ここで一つ、疑問がある。不正規雇用労働者の増加が叫ばれる現在、かつて山谷が果たしたような、日雇いの安価な労働力を供給する場は、まったくなくなってしまったのだろうか。そうではない。今、それに代わって、若い労働力を提供しているのが、携帯電話による登録制のアルバイト情報サイトだ。携帯のインターネットで検索すると、いくつもの業者が出てくる。まず、携帯サイトから、登録の説明会を予約して、これに参加する。そこで給与や労働条件などの希望を登録すると、メールで適した仕事を紹介してくれるサービスだ。ほとんどの業者が、日払いの仕事が多いことを売りにしているから、形を変えた<日雇い労働の寄せ場>と考えることもできる。
 D君は、このようなアルバイト紹介サイトに登録している二四歳の青年である。福島県から上京してきて五年目で、学歴は高校中退。今は、決まった住所を持たず、友達の家を転々としたり、金の余裕があるときにはサウナや漫画喫茶に泊まったりしている。金がなくなると携帯サイトで紹介された仕事をする生活だ。D君に、新宿区内のまんが喫茶で話を聞いた。
「前は部屋を借りていたけど、家賃が払えないので、今は借りていません。バイトしてれば、なんとか生活はできるし。先のことですか? あんまり考えないですね」
 D君が主に従事する仕事は、デパートの棚卸とか、配送業務で、短いときには一日、長くても数日間のアルバイトが多いという。今のところ、どこかに長期間勤めるつもりはない。彼は特に、ミュージシャンになりたいなどの「夢」があるわけではなく、ただ漫然とその日暮をしているのが実状だといった。そういう生活をしている友人は多いのかと聞くと、
「仕事が終わったら、お金をもらって帰るだけだから、他の人がどういう暮らしをしているのかは知りません」
 と、あまり興味がなさそうだった。最盛期の山谷には、少なくとも、住人同士の連帯があったし、仕事が終わった後、一緒に酒を飲むなどの付き合いもあった。しかし、<寄せ場>が形を変えたともいえる携帯アルバイトでは、一人ひとりが孤立しているのかもしれない。が、そうであっても、D君たちが、かつての山谷の労働者たちのように、最底辺の不安定労働力として日本経済を支えているのは間違いない。景気が回復してきたとは言え、一皮剥けば、これが現実なのだ。

 さて、もう一度、山谷に戻ろう。夕刻を過ぎた「いろはショッピングロード」には、多くの労務者が、蒲団に包まっていた。ドヤにも入れない彼らが、ここで夜を過ごすのだ。そんな中に、BさんとCさんの姿もあった。
「Aさんはどうしました?」
 訊くと、彼はドヤに泊まっているという。
「やつは生活保護があるからね」
 言ったのはCさんだ。彼が、何か意味ありげに指さすので、そちらのほうを見ると、先ほど、酔っ払っていた男が、汚れた蒲団の中で熟睡していた。
「ほら、死にゃあないだろう」
 Cさんが笑う。私は、二人に煙草を勧めた。Cさんには、自分は吸わないからと言って断られたが、Bさんは快く受け取ってくれた。ライターを渡そうとすると、彼はポケットの中から、自分の使い捨てライターを取り出した。普段煙草を吸う証拠だ。吸いたくても煙草がない生活は辛かろう、と私は思った。そういえば、マンモス交番の中にも、「煙草はありません」という看板が出ていた。交番に、一服の煙草を求めにいく人も多いのだろう。
「これからどうするんですか? 田舎へ帰ろうとかは思いませんか?」
 私は聞いた。Bさんがまず、
「思わないね。もう帰るところなんかないよ。死ぬまでこのままだよ」
 と言うと、Cさんが、
「山谷で仕事がなきゃ、日本中、どこへ行っても同じだよ。ずっとこうしてるしかないな」
 と、彼特有の冷笑的な口調で言った。春とは言え、夜は寒い。私自身にも住居を失い、路上の人であった経験があるだけに、彼らの過酷な毎日は、私にとって、決して他人事ではなかった。
 前述した名作漫画「あしたのジョー」では、よんどころなく泪橋を渡って山谷の住人になった作中人物たちは、いつの日か泪橋を逆に渡って一般の社会に戻る日を夢見て、<明日のために>日々の労働に励む。しかし、今の山谷に住む人たちは、泪橋を逆に渡ることなど、もはや一切考えず、この街に埋もれようとしている。これも日本社会の一断面には違いない。
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[ 2009/05/03 00:01 ] アーカイブ | TB(0) | CM(-)
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松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

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