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リアリティについて①

 先日、これから小説を書きたいと思っている、という人から、
「小説にはリアリティが必要だとよく言われますけど、どうやればリアリティのある小説が書けるのですか?」
 と訊かれた。

 どうしたらリアリティのある小説が書けるのか、となると、これはもう、個人の資質や、精進による――としか言いようがない。しかし、いくら精進すると言っても、<小説におけるリアリティとは何か>ということが解っていないと、精進のしようがない。

 そこで、この人に、エラソーに教える、という立場ではなしに、今後の私自身の創作のためにも、<小説におけるリアリティとは何か>ということを考えてみた。


 それを記す前に、まず、お断りしておくが、これから述べることは、あくまでも小説――フィクションにおけるリアリティの問題である。私は、ご存知のように、小説とノンフィクションの二足の草鞋を履いているが、リアリティの担保の方法は、フィクションとノンフィクションでは大きく違ってくる。ノンフィクションの場合を簡単に記しておくと、それはディティールに徹底的にこだわる、ということになるのだが、それについては、また、稿を改めて述べてみたい。

 今回は、フィクションにおけるリアリティについてである。

 フィクションにおけるリアリティとは何か、を一言で言うと、それは、<読者が作品世界に容易に入れるようにするための手続き>ということになる。それが、現実にありうることかどうかはあまり関係がない。読者が、「これはいくらなんでもムリだろう」と違和感を覚えずに、フィクション世界に入り込めれば、それは<リアリティが担保されている>と言っていいのである。

 一つ例を上げたい。私は、CSの時代劇専門チャンネルでよく昔の時代劇を観る。その中で、どうしてものめりこめないのが、かつてテレビ朝日で放送されていた「暴れん坊将軍」である。あのドラマは、「銭形平次」(CX)の888回に次ぐ、831回も放送された番組で、それだけ人気もあったのだろうし、ドラマとしてもよくできてはいる。しかし、私にはあまり楽しめない。

 なぜかというと、私には、<将軍が、ふだんは旗本の次男坊と偽って、市井の人と交流している>という設定が、どうしても受け入れられないのだ。物語に入る前に、「いくらなんでも、それはムリだろう」と考えてしまう。そうなるともう、物語を楽しむのは無理である。

 似たような設定の作品に、「遠山の金さん」(NET→テレビ朝日)、「水戸黄門」(TBS)がある。金さんにしたところで、南町奉行が遊び人を偽って、市井の人と交流を持っている、というようなことは、現実ではありえない。しかし、私は、「遠山の金さん」なら、「これはムリだろう」と思わずに作品世界を楽しむことができる。

 つまり、「暴れん坊将軍」にしても、「遠山の金さん」にしても、設定が現実にはありえないことだというのは共通しているのだが、私にとって、「金さん」はまだ、許容範囲内なのだ。将軍は無理でも、町奉行ならありうるかもしれない――そう考えることができる。言い方を換えれば、<将軍はやりすぎだろう>ということである。

 しかし、人によっては、町奉行であっても、「それはムリだ」と拒絶反応を起こす人もあるだろう。山手樹一郎の「鉄火奉行」などは、その点を上手く処理してある。

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 この作品でも、遠山は町人の恰好をして、市井の人たちと交流を持つ。しかし、<金さんとはそういう人だ>という前提のもとにそうしているのではなく、きちんと<何故、そうしているのか>が、納得できる形で説明してある。こうすることによって、現実にはありえない、<町奉行が町人の姿で市井に出る>という設定を、読者に受け入れさせているのだ。これが、フィクションにおけるリアリティということである。

「水戸黄門」を例に取ると、もう少し判りやすい。石坂浩二が水戸黄門を演じたシリーズで、石坂が、これまでのシリーズはあまりにも史実と違いすぎた、と主張し、より史実に近い水戸光圀の姿を描こうと試みた。それまでのトレードマークだった髭を止めたのもその一環である。

 しかし、それは視聴者に受け入れられなかった。つまり、史実を重視しようとした石坂の水戸光圀は、「水戸黄門」という作品世界に、視聴者が求める設定とは違っていたわけである。この辺りが、フィクション、とりわけ、エンターテインメントにおけるリアリティの問題を、より如実に物語っていると思う。つまり、現実をそのままに表現する、ということと、フィクションにおけるリアリティとは、全く別のものだ、ということである。あくまでも、<作品世界を違和感なく楽しむための手続き>が、フィクションにおけるリアリティの意味だ、ということなのだ。

 今回は<作品の設定>におけるリアリティについて簡単に述べた。この問題、私自身の創作のためにも、もう少し深く考察してみたいので、次回から、もう少し細部に亘って、<フィクションにおけるリアリティ>について記してみたい。 
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[ 2009/04/26 00:43 ] 日常生活 | TB(0) | CM(-)
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松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

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