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庶民という幻想

 テレビで民主党政権による<事業仕分け>を見ていたら、宝くじ事業を取り上げていた。私は、その内容について云々するほどの知識は待ち合わせていないが、驚いたのは、仕分け委員が、それがさも当然であるかのように、宝くじのことを<庶民の夢>と表現したことである。官僚機構が、庶民の夢を食い物にしている、というような文脈だったと思う。

 私は、激しい違和感を覚えた。仕分け委員は、むろん、議員か議員によって任命された識者である。そのような人にとっては、宝くじが<庶民の夢>であるという前提概念が存在するようである。なるほど、政治家と一般選挙民の意識は、ここまで乖離しているのか、と暗澹たる心境になった。

 ところが、その晩、テレビ朝日の「報道ステーション」を見ていて、私は更なる違和感に苛まれることになった。私は、この番組が嫌いではない。何年か前に、VTRで出演したこともある。各局が流している夕方や夜のニュースショーの中では良質なほうだと思っている。しかし、その司会者である古館一郎が、件の事業仕分けのニュースを伝えるとき、これもまた、さも当然の如くに、宝くじのことを<庶民の夢>と表現したのである。こうなるともう、<庶民の夢>という言葉は、<宝くじ>の枕詞と化した感がある。

 ところで、では実際に、<宝くじ>を自らの<夢>だとみなしている<庶民>という層が存在するのだろうか? 私は宝くじを買ったこともあるし、そう高額ではないが、何度か当たったこともある。1億円が当たるというのなら、それがイヤだとも思わない。しかし、夢を賭して宝くじを買ったことは、一度もないし、クジに当たって、多額の現金を手にすることが、自分の夢だなんぞと考えたことも、一度もない。

 定期的に宝くじを買っている人も、おそらくは似たような心境なのではないか? 1500円出して本を一冊買う、1800円出して映画館に入る、250円でDVDを借りてくる……といったことと等価として、3000円出して宝くじを10枚買う。それが、普通の人の心境だろう。つまりは、一般の人間にとって、本や映画、居酒屋へ入るのと同じエンターテインメントとして、宝くじも存在しているはずだ。 

 もちろん、ほかのエンターテインメントと違うのは、宝くじはバクチであるから、買った後に、金が増えて返ってくる可能性がある点だ。しかし、これにしても、私はやらないから実感としてはよく判らないけれども、パチンコをしたり、競輪競馬に行ったり、マージャンをしたりするのと同じ心境だろう。ギャンブルを楽しむ人は、ギャンブル自体が楽しいわけで、その後に転がり込んでくるかもしれない大金を夢見てギャンブルをするわけではない。

 実際に、仕分け委員にしても、古舘にしても、パチンコや競馬を<庶民の夢>とは表現するまい。では、それらと宝くじとはどこが違うのか。賞金である。今の宝くじは、一等が1億円を越える、いわゆるジャンボ宝くじも多くなった。そう考えていくと、仕分け委員や古舘が<庶民の夢>と口にするとき、想定しているのは<1億を超える金>ということになり、彼らは、「庶民というのは、宝くじに当たって、濡れ手に粟の1億を手にする夢を持っている」と言っていることになる。まあ、無意識のうちに、のことだろうが、論の展開から言ってそうならざるをえず、仮に無意識でいるとすれば、そちらのほうがずっと恐ろしい。つまりは、彼らは、<庶民>というものをナメているのである。

 自分たちにとって、宝くじは夢ではないが、庶民には夢である――という論理を内包したとき、すなわちそこには<庶民>というものに対する軽侮が存在することになる。

 そこで私は繰り返し悩むのである。実際に、<宝くじを人生の夢>とする<庶民>なるものが存在するのかどうか。私は、前述のように、そんな人はほとんどいないと思う。私もそうだが、宝くじを買うとき、当たると思って買う人は少ない。当たるはずがない、と普通は思っている。実際には、数万円が当たることもあるし、300円が戻ってくるだけのこともある。それを親しい友人や家族と話のタネにして、宝くじはおしまいである。別段、当たらなかったことをいつまでも悔やむこともない。つまりは、そういう話のタネのために、3000円程度なら出してもいい、と考えているのが、大半の宝くじファンのはずである。

 仕分け委員や古館には、その辺りが理解できていないのだろうか。それならばそれで、まだ深刻さの度会いは低い。彼らの品性が低いだけである。そうではなく、彼らが、この世界に<庶民>という、自分たちの行動規範とは全く違う規範に基づいて行動する層がいる、と見なしているとすると、事はひどく深刻になるはずだ。それこそ、政治家や著名人と、一般選挙民の間に、埋めがたい乖離が存在することになるからである。

 私は最近、もう一つ、似たような事例に遭遇した。昼のニュースショーだったと思うが、舛添要一が出演していた。昼の番組らしく、〇と×を書いた棒を持たされており、司会者の質問に、〇か×のどちらかで答える趣向だった。司会者が、
「今朝もゴミ出しをしてきた」
 と質問したとき、舛添は×を出し、
「だって、今日はゴミの日じゃないもん」
 と言った。そこまででよしておけばいいものを、彼は、<生ゴミの日は何曜日>なんぞということを言い始めた。

 私はよく知らなかったのだが、舛添という人は、朝、自宅を出る時に、ゴミ出しをするところをカメラに撮らせる趣味があるらしい。つまりは、そういう姿をテレビの画面に流すことによって、自分の<庶民性>をアピールする作戦だろう。そういう行為が<庶民の琴線に触れる>と見なしているわけだ。

 ところが、前述の言葉で、気の毒なことに、その作戦が無力化してしまった。というのは、舛添は私と同じ世田谷区民のはずである。世田谷区には、<生ゴミの日>などというものはない。今は、<燃やせるゴミ>ないしは<燃えるゴミ>といっている。私は、言葉尻を掴まえているわけではない。ゴミの分別の仕方が変わったのである。前は、<燃えるゴミ>は、それこそ生ゴミ、紙屑、布キレくらいで、包装紙などに使ってあるポリやプラなどは<燃えないゴミ>に分別しなければならなかった。これならまあ、一歩を譲って<生ゴミの日>と称してもよかろう。

 それが昨年だったかに分別の仕方が変わって、陶器や鉄、割れたガラスなどのほかは、ポリでもプラでも、<燃えるゴミ><燃やせるゴミ>として出してよいことになったのである。昔からこれらのものはよく燃えたのだけれど、燃やす際に出る熱の温度が高すぎて、焼却炉が損傷する危険があった。それを、新たな焼却炉に変えたから、すべて燃やせることになったのだ。この変更で、ゴミの分別が、飛躍的に楽になった。しかし、そうなるとこれを<生ゴミの日>と表現するのは無理である。

 この辺りのことをあわせて考えると、次のようなことがいえそうである。舛添は、確かに、少なくともテレビカメラのいるところでは、ゴミ出しをする。しかし、細かな分別法については知らない。つまり、舛添は、ゴミ出しはするが、ゴミの分別はしない。奥さんなのかお手伝いさんなのか知らないが、家の人間が置いておいたゴミ袋を、ゴミ捨て場に持っていくだけである――と。

 私は、別段、これが非難されることだと思わない。しかし、舛添が分別の方法も知らないのに、自分がゴミ出しをする人間だ、という点をアピールする姿勢が気に入らない。つまりそれは、<そういうことが、庶民には好印象を与える>と、舛添が考えていることになるからだ。それは、あなた、選挙民をナメ過ぎてはいませんか?

 最後に、仕分け委員や古舘氏、舛添氏には一言しておきたい。あなたたちが想定しているような、<庶民>なんぞというものは、この世に存在しませんよ。存在しないものに阿るよりは、<一般の選挙民も、自分たちも同じである>という基本的なところから出発したほうがよいのではありませんか? それとも、そうすることによって、あなた方のどこかが傷つくのでしょうか?
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[ 2010/05/24 17:19 ] 政治 | TB(0) | CM(-)

ここ、イタイイタイ

 今年、中学に入ったうちの娘は、歩き始めるのも言葉を覚えるのも早かった。生後6ヶ月くらいでもう普通に歩き、2語分をしゃべるようになった。ところが、まだ頭の大きい典型的な乳児の体形だから、公園などで遊ばせているとよく転んだ。だから、彼女を公園に連れて行く時には、携帯できるスプレータイプの消毒液やバンドエイドが必需品だった。

 転んで作った傷に、
「ちょっとしみるけど、がまんするよー」
 などといいながら消毒液をスプレーしてやり、バンドエイドを貼る。娘は、嬉しそうににこにこしている。バンドエイドは子供向けの、アンパンマンやドラえもんのイラストがついているものである。娘はそれが嬉しいのかと思ったら、そうではない。

 何故、それと判るかというと、娘は、バンドエイドを貼った傷口を指差しながら、
「ここ、イタイ、イタイ」
 などと口にするからである。当時の娘にとって、バンドエイドを貼った傷は、ある種のアピールポイントだったわけだ。
「イタイ、イタイ」
「そうだねー。気をつけようねー」
 娘、にこにこにこ。これは、乳児と父親との、幸福な時間ではある。

 その娘も中学生になった。テニスを始めたこともあり、今でも時折、手足に傷を作っていることがある。私が、
「バイキンが入っちゃうぞ。バンソウコウでも貼っとけば?」
 言うと、
「やだよ、みっともない」
 と応じる。生後6ヶ月から1歳くらいの頃に比べ、娘も成長したわけである。

 読者諸賢は既にお判りのことと思うが、私は、上記のエピソードを紹介しながら、民主党の三宅雪子代議士を揶揄しているのである。彼女の一連の行動は、ただただ見苦しく、メディアで彼女の肉声が紹介されるたびに腹が立つ。洗練された先進国であり、大国のひとつに数えられる国の代議士が、しかも40代の半ばになんなんとする大の大人が、こんなことでいいはずはないではないか。今すぐ、議員辞職して欲しいというのが、私の正直な感覚である。

 巷間言われる如くに、委員会で転んだのが三宅の自作自演であるのかどうかについては、私はあまり関心がない。そんなことはどうでもいい。しかし、その後の行動が、どうしても是認できない。転んだ次の日、三宅は車椅子に乗って委員会に現れ、ご丁寧に松葉杖を突いて階段を降り、もう一度、転んで見せた。

 おそらく、三宅は、自らのこのような行動が、<国民に対するアピール>になると判断しているのだろう。少なくとも、<みっともないこと>であり、<恥>だとは考えていない。選挙という洗礼を浴びる立場である以上、選挙民の反応がマイナスに働くと思えることを、わざわざやるはずはないからである。

 つまり、三宅は、委員会での転倒→車椅子でのカメラの前への登場→松葉杖でのカメラの前への登場の一連の流れが、選挙民の印象としてはマイナスに働くことはなく、プラスのアピールになる、と考えていたと判断するしかない。そうでないと、彼女の行動に整合性が担保できない。まあ、松葉杖を突いての再転倒は、想定外のことだったかもしれないが。

 私は、代議士の、こういう形での選挙民のナメ方が耐えられないのである。

 しかも、事態はその後、更に小児的な方向に発展している。
「あまりくんが、ゆきこちゃんを突き飛ばしてころばせました。ホームルームで取り上げるべきです」
「ぼくはゆきこちゃんを突き飛ばしていません。ゆきこちゃんが勝手に転んだんです」
「ぼくは、ゆきこちゃんが、自分で転んだといってるのを聞いたよ」
 なんぞと、これがいい歳をした大人たちが、国会という場で行うべき言説なのだろうか――と、天を仰ぎたくなる事態に堕してしまった。

 もう一度いう。日本は、大国である。政治的にも、経済的にも世界に影響を与えずにはおられぬ国である。諸君は、その国の代議士であり、いい年をした大人である。もういい加減にしてくれるつもりはないか?

 委員会で小競り合いがおき、もみ合っているときに転ぶなどということは、とうぜん、ありうる。しかし、国会でそれが起こったことは、代議士にとって恥のはずである。従って、三宅の採るべき態度は、一つだったはずだ。事後に記者会見でもし、
「委員会で転んでお騒がせしました」
 と頭を一つ下げればいい。それで、この問題は終了である。翌日は、車椅子に乗ってカメラの前に登場したり、松葉杖を突いて階段を降りるところをカメラに撮らせたりせずに、議席のすみのほうで大人しくしていればいい。私も、大きな怪我をしたことがあるから判るが、怪我がひどければひどいほど、安静にしているほうが治りも早いはずじゃないか。

 また、民主党の幹部も、多少は野党にイヤミを言いたいのであれば、
「委員会で議員に怪我人が出ては、まともに議論ができず、職責が果たせない。委員会はもみ合う場所ではなく、言論の府なのだから、野党の諸君もこれからは気をつけて欲しい」 
 ぐらいのことを言うに止めておけばいいではないか。それで、この問題はすべて終了。だれが突き飛ばしたの、自作自演だのと騒ぐ必要はないし、三宅もわざわざ診断書などを取る必要もない。

 もし仮に、そういう終了のさせ方をせず、いつまでもこの問題を引っ張ることが選挙民に対する絶好のアピールになる、と与野党の双方が判断しているとすれば、それは選挙民をナメきっているとしかいえないし、もうこの国は終わりである。小学生が国会を運営するようになっては、国家に未来など在るはずはなかろう。

 上記が、今回の空騒ぎに対する私の見解である。そして、国民の大半も、そういうふうに見ているはずである。むろん、私は僭越にも国民を代表している、というふうに考えているわけではない。常識的な、フツーの大人なら、誰でもそう考える――というだけの話である。もし、政治家だけがそう考えていないとすれば……恐ろしい。そんなことはないと信じたい。

 ところで、三宅の転ぶところを2度見て、私は、ある種の感慨を覚えた。彼女は2回とも、頭から床に崩れ落ち、反射的に手を突く、ということをしなかった。これは、非常に危険な転び方である。通常、人間は、無意識に手を突いて顔や頭などの命に関る部分を庇うものなのである。それが生物の本能というものだ。ところが、今の子供たちは、たとえば校庭で小学生が転んだときなど、今回の三宅のような転び方をするケースが多いことが指摘されている。だから、大怪我に繋がりやすいとも言われる。

 まあ、そういう転び方は、昔はコントでよくやっていたもので、ドリフターズなどはこれが非常に上手かった。手を突かずに頭から前向きに倒れたり、立ったまま後ろ向きに倒れたり……そういうコントが、昔は多かった。アチャラカ喜劇からの流れだろう。だからこそ、それと似た倒れ方をした三宅が、自作自演などといわれるのかもしれない。しかし、自作自演でないとしても、三宅の転び方が、今、学校社会で問題視されている子供の危ない転び方と似ていたことは、ある意味で、非常に示唆的である。

 国会議員に、神のような叡智を求めるほど、私は楽観主義者ではない。しかし、国会が大人の議論を放棄するのを座視するほど、善人でもない。議員諸君は、もう少し大人として行動してくれ。
[ 2010/05/17 13:32 ] 政治 | TB(0) | CM(-)

侍ニッポン

 与謝野元財務大臣平沼元経産大臣を中心とする新党は<たちあがれ日本>という名前になったという。これは、新党の応援団だとかの石原慎太郎都知事のアイディアによるものらしい。うーん、まあ、私は、未来永劫この党に投票することはないだろうから、そういった相手の名前に対してどうこういうのは野暮だけれども、あまりゾッとしない名前である。ただ、政党史上初の<命令形>の政党名だというところが、命名者の石原知事らしいとは思うけれども。

 ところで、朝日新聞電子版の報道によると、党名を決める際に、藤井孝男元運輸大臣は、<サムライ>を主張したということである。ほかのメンバーは<日本>という言葉を付け加えることにこだわり、これだと<サムライ日本>になる。かつて似たタイトルの流行歌があったということで、この案は退けられ、石原知事が主張した<たちあがれ日本>が採用された、という流れらしい。

 このニュースを読んで、私は大笑いしてしまった。藤井さんには申し訳ないけれども、とてもではないがマトモな人の発想ではないと思った。藤井さんが主張した名前によく似た歌謡曲というのは、1931年(昭和6年)にビクターから発売された西条八十作詞、松平信博作曲の「侍ニッポン」のことである。これは、同年4月に、郡司次郎正が『大衆文学』5月号に発表した小説「侍ニッポン」を日活が映画化した際に、その主題歌として作られ、徳山がレコードを吹き込んでいる。

 「侍ニッポン」の主人公は新納鶴千代といい、大老井伊直弼が芸者に産ませた日陰の子である。彼は、勤王派に加わって孤立したり、佐幕派と交わったりしながら、激動の時代の波に弄ばれ、やがては桜田門外で、実父・井伊直弼を襲撃することになる。鶴千代は、その生い立ちもあってか、一貫して、ニヒルな浪人として描かれている。激動の幕末にあって、彼にとっては、勤王派と左幕派の激しい闘争など、無意味なものにしか見えないのである。

 昭和6年という年は、金融恐慌の余燼がまだまだくすぶり、都市部には失業者が溢れ、農村部では娘の身売りが大きな社会問題になっていた。日本全体が巨大な社会不安に苛まれていた時代である。

 こういう時代には、軍部がキナ臭い動きをしやすい。三月事件、十月事件の二度に亘り、軍部のクーデター計画が発覚している。桜会や大川周明を中心とする勢力が、クーデターによる軍部主導内閣の樹立を画策していたのである。9月18日には関東軍がついに暴走、奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破し満州事変が始まる。政府は不拡大方針を決定するが、単なる出先機関に過ぎぬ関東軍はこれを無視、事変は拡大していく。その後の戦時体制の起点になったのが、この年である。

 こういった重苦しい世相にあって、閉塞感や敗北感を抱えていた若者や左翼、インテリ層が「侍ニッポン」の主人公、新納鶴千代のニヒルな生き方に共感し、映画も主題歌も大ヒットしたのである。

 さて、では何故、私が藤井案に大笑いしたかである。「侍ニッポン」はそういった主人公を歌った曲であるから、勢い、歌詞もニヒリズムを帯びている。著作権の関係もあり、歌詞の全文をここに引用することはできないが、以下に重要なフレーズだけ書き写してみよう。

 <きのう勤皇、あしたは佐幕。その日その日の出来心>
 <どうせおいらは裏切り者よ>
                    (ともに2番)

 どうだろう? 与謝野は郵政民営化法案を取りまとめた人間である。平沼はそれに反対し自民党を飛び出した人間だ。与謝野はリベラルよりの保守であり、平沼は徹底した国家主義者である。思想や政策が違うにもかかわらず、協力して新党を作る。人によっては、これを野合と呼ぶ人もあるだろう。また、民主党の支持率が急落した現況にあって、次期参院選は自民党にとって、<最後の正念場>というべき選挙である。そんな時期に、与謝野らは党を飛び出したのである。

 そういう新党が、もし、

 <きのう勤皇、あしたは佐幕。その日その日の出来心>
 <どうせおいらは裏切り者よ>

 という歌詞を持つ流行歌のタイトルと同じ党名を名乗っていたとしたら、これほど馬鹿馬鹿しい冗談もそうあるものではなかったろう。シャレにならんゾ、という奴である。

 ライトの人というのは、どうも<サムライ>といえば自分、ないし自分の支持者だと脊髄反射的に考えてしまうようだが、「侍ニッポン」を支持した層、すなわち新納鶴千代を支持した層は、決して与謝野平沼新党を支持する層とは重ならない。いや、むしろ逆の立場の人々である。また、郡司次郎正が「侍ニッポン」で描いたものも、与謝野平沼新党的なものではない。新党のためにも、「侍ニッポン」のためにも、<たちあがれ日本>が<サムライ日本>にならなくてよかった、と私は心から思う。

 それにしても、昭和6年は、現在の日本によく似ている。長引く不景気、多数の失業者、幸にして農村部での娘の身売りという事態にまでは陥っていないが、それでも、若い女性が職を求めて風俗に走るケースは多いと聞く。社会不安が蔓延し、国民が閉塞感を抱えている状況が非常によく似ている。

 軍部の暴走にしても、自衛隊の一佐が鳩山首相を揶揄する発言をしたり、三佐がその一佐の発言を擁護するメールを防衛大臣に送ったりする事件が相次いでいる。そのほかにも、尉官が隊内で<首相はいい加減>と発言して、厳重注意処分を受けてもいる。ちなみに、今、日本では100円ショップが大流行である。実は、昭和6年には、高島屋が全商品が10銭均一の10銭ストアを始めているのである。

 歴史は繰り返すというが、私は、この国がまた戦火の中にその身を突進させるのは、何があっても厭である。次の世代に、平和で豊かな国を残す義務が、我々にはあると思う。ひょっとしたら、今がそのための正念場なのかもしれない。      
 
[ 2010/04/09 22:11 ] 政治 | TB(0) | CM(-)

小沢は不起訴か……

 テレビの報道によると、東京地検は小沢一郎民主党幹事長の不起訴を決めたようである。

 法律用語に〈疑わしきは罰せず〉という言葉がある。本来、これは裁判に対して使われる言葉である。しかし日本の刑事訴訟ではほとんど有罪判決が出る。そうなると、日本ではこの〈疑わしきは罰せず〉の原則が機能していないのではないか、との疑義も出てくるわけだが、実はそうではない。

 日本の場合、起訴権は検察にしか与えられていない。我々はこれを普通のことだと考えているが、世界的に見れば、こういうシステムのほうが特殊なのだ。さて〈疑わしきは罰せず〉の原則についてである。日本の場合、上記のような事情もあり、検察が公判が維持できる(確実に有罪判決が得られる)と判断したケースしか起訴しない。つまり日本においては〈疑わしきは罰せず〉の原則は裁判所レベルで担保されているのではなく、その前段階である〈起訴〉の段階で担保されている、ということになりそうである。これは、司法システムとしては極めていびつなことである。同じような法的原則に〈推定無罪〉の原則があるが、日本ではこれが顧みられることはほとんどない。これも〈確実に有罪にできる〉と検察が判断したケースしか起訴されないことが、その大きな原因と考えてよかろう。

 と考えていくと、今回の小沢の不起訴は、公判が維持できる保証がないから起訴されなかった、と考えなければならない。つまりは〈証拠不充分〉である。検察レベルでの〈疑わしきは罰せず〉の原則だ。これが困るのは、公判が行われないから、我々国民が真相を知る機会が失われる、という点である。結局、今回の小沢の問題も、闇の世界で起こり、また闇の中に溶解していくことになる。これでは、今までの政治と金の問題の終結の仕方と何ら変わらない。せっかく政権交代したのに、それでよいのだろうか?

 検察が不起訴にしたということは、小沢の今回の問題がすべて終わったということではない。むしろ逆で、検察から民主党にボールが投げ返されたのである。これで検察VS新政権という構図は消えた。であるならば、これからは民主党が〈新たな理念〉に基づいて政権を担当していくためにも、今回の小沢の問題を〈民主党の自分自身の問題〉と捉えて、自発的に精査し総括すべきだ。でなければ、いつまでも政治は変わらないし、我々国民も、遠くない将来、せっかく政権交代した新政権にも絶望することになるだろう。それは〈国家の不幸〉である。
[ 2010/02/03 22:38 ] 政治 | TB(0) | CM(-)

国会議員の言語感覚

 政権交代が実現して、国会も多少は様変わりしたかのように見える。官僚に答弁させずに、閣僚がすべての答弁を行うようになったことなどがその一番、大きな事例だろう。私はこれはよい変化だと思っている。しかし、そうではあっても、国会での議論の内容となると、これはもう旧態依然というほかない。今、しきりに騒がれている金と政治の問題など、攻守ところを変えただけで、もう何十年も同じことをやっている。我々国民は、こういうことの改革をこそ望んだのではなかったか。

 しかし、まあ、〈新政権〉の最高実力者が小沢一郎氏であるかぎり、こうなるのは当たり前だとも言える。小沢氏は田中角栄の手腕を最も学んだ政治家だそうな。前回の衆議院選挙での民主党の大勝も小沢氏の角栄譲りの選挙戦術が大いに威力を発揮した結果だろう。それならば、小沢氏が金の問題にクリーンな政治家ではないこともまた、折り込み済みのはずではないか。角栄の選挙戦術は譲り受けたが、その金権体質は受け継がなかった、なんぞということがありうるものか。

 いずれにしても、小沢的手法は旧いのだ。旧くて旧くてたまらないのだ。昨年末、子飼いの若手議員をゾロゾロ引き連れて訪中する映像を見た。今年になってからは、世田谷区内の自邸に多数の国会議員を参集させて開催した新年会の映像を見た。私は、チャンネルを間違えて、昭和2~30年代の旧いニュースフィルムを見ているのかと錯覚しそうになった。私は、小沢氏のこのような感覚が耐えられない。私が政治について、最も嫌うものの一つである。

 また、国会を見ていてもう一つ感じることがある。国会議員諸氏が使う日本語のいやらしさ、内容の空疎さだ。たとえば、政治家の間では今、〈最も力を入れるべき政策〉のことを〈一丁目一番地〉と表現する。洒落たレトリックのつもりかも知れないが、私はこれを聞くたび、こちらが恥ずかしくなり、歯が浮くような不快を感じる。もっとマトモでフツーの日本語で表現する気にはなれないものか。もう一つは、野党が新政権を批判する際の、『これでは〈政権交代〉ではなく〈政権後退〉だ』というレトリック。まあ、ザブトンを一枚上げてもいいけれど、政治家なら〈うまいことを言う〉ことばかり考えずに、中身のある議論をしましょうよ。個人であれ組織であれ国家であれ、言語の貧困から痩せていくのである。私はモノカキゆえ、現今の政治家の言語的退廃は、すでに危険水域にまで達しているように思えてならない。
[ 2010/01/28 18:50 ] 政治 | TB(0) | CM(-)

日本発狂

 衆議院が解散して、今、総選挙期間中だが、麻生太郎という人は、まだ、日本国の内閣総理大臣のはずである。ところがこの人、またまたおかしな発言をしている。朝日新聞電子版の報道によると、麻生は23日夜、東京都内で開かれた学生との対話集会で、
「金がねえなら結婚しない方がいい、おれもそう思う。うかつにそんなことしないほうがいい。おれは金はない方じゃなかった。だけど結婚は遅かった。稼ぎが全然なくて尊敬の対象になるかというと、なかなか難しい」
 と発言したらしい。

 これは、学生からの、「若者に結婚するだけのお金がないから結婚が進まず少子化になるのではないか」との問いに対しての答えらしい。おいおい、大丈夫なのか? どこかのイナカの成金の言葉ではない。これは、日本国内閣総理大臣の言葉なのだ。呆れた。と同時に、我が愛する日本という国の、将来が、ほんとうに心配になってきた。

 銭がすべての世の中か。人様の尊敬を受けるには、銭がもっとも必要な要素なのか。一国の総理が、堂々とこのような発言をするようでは、この国はもはや、発狂状態というほかはない。麻生さん、あまりに品がないじゃないですか。

 麻生のこの言葉を、次のように置き換えてみたらどうか。
「知恵がねえなら総理にはならないほうがいい。おれもそう思う。うかつにそんなことしないほうがいい。頭が悪くて尊敬の対象になるかというと、なかなか難しい」
 私には、こちらのほうがしっくりくる。ああ、ビンボー人は駄目だ、ゼニが一番だ……そんな品のないセリフばかり聞いていると、どんどんどんどん世の中が嫌になってくる。しかも、それを口にするのが、この国の内閣総理大臣だというのだから、もうどうしようもない。

 日本はすでに発狂している。救いはどこにもない。悲しすぎるな、これでは。
[ 2009/08/24 17:06 ] 政治 | TB(0) | CM(-)

東国原氏にはノーだ

 いよいよ選挙のシーズンである。今朝、買い物に出たら、うちの近くの小学校の前にも、都議選用のポスター掲示板が設置されていた。私は、ウイークデーは世田谷の事務所で仕事をし、週末だけを妻子のいる大井町で過ごしている。その大井町駅前でも、各党の衆院選東京3区立候補予定者や、都議選立候補予定者が演説を行っている。まさに選挙前ならではの風景といえよう。

 そんな中で、一際目立っているのが、たけし軍団のそのまんま東君――いや、今はもう、そう呼んではいけないのだろう。宮崎県の東国原英夫知事である。毎日のように、テレビ番組に出ずっぱりで、次期衆院選について語っている。

 彼を見ると、なるほど、自分の<売り出し方>の上手い人だなあ、と感心する。今回、彼がこれだけ騒がれるのも、自民党の古賀選対委員長に対し、自民党から出馬するのであれば、知事会で纏めたマニュフェストをそのまま自民党のマニュフェストに組み込むことと、自分を総裁選候補にすることを条件とした、と報道されたことがきっかけだろう。

 どういうことを口にすれば、メディアが騒いでくれるのかをよく心得ている。なかなかたいしたものである。しかし、私ははっきりとここで宣言しておく。東国原氏はノーだ。私は、まったく支持しない。彼が首相になる可能性があるなど、かつて、そのまんま東が演じていたのと同様、笑えないコントだ。 
[ 2009/06/28 12:48 ] 政治 | TB(0) | CM(-)
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松井計のプロフィール

松井 計

1958年7月5日生まれ。大学卒業後、英語講師、古書店店主などの職を経験。1995年7月短編戦記小説集「血戦! 帝国艦隊進撃ス――零戦隊激闘記」を松井永人名義で刊行、文筆生活に入る。2001年幻冬舎より刊行した「ホームレス作家」から筆名を本名に戻し、以降は松井計の名前で活動、現在に至る。趣味は野球、酒、猫。社団法人・日本文藝家協会会員。

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